「ポイ捨てを見たら、◯◯できる人間になりたい」
みなさま、おはようございます。 本日も新幹線からお送りします。天気は雨、梅雨の季節の到来を感じさせます。
「ポイ捨て」されたもの、「ポイ捨て」した人を見た時、あなたは何を思いますか。 「この人なんて人だ」って私は思います。特に吸い殻、路上喫煙が基本的に禁止されているにも関わらず、ましてや道にタバコの吸い殻があるなんてもってのほか。
こんな感じで“怒り”のようなものがふつふつとこみ上げてくる時があります。 こういう人も少なくないのではないでしょうか。
ある種の「正義感」からそんなことを思っていたのかもしれませんが、ある出来事がきっかけでその思いを考え直すようになりました。
宇都宮に勤めていた時代、私は職場まで徒歩で出勤をしていました。 ある日は早朝の出勤で、「ああ眠たい」と思いながらも朝日がキラキラと輝く方向に足を進めていました。街はまだ通学や出勤時のような慌ただしさはなく、爽やかな陽気の朝、出勤前のお父さん方がちらほらと駅や職場へ向かって足を進めるという、なんら違和感のない光景でした。
そんな景色の中の一つだった、あるお父さんが突如道の途中で腰をかがめました。 なんだ靴でも結んでるんだろうと横をとおり過ぎようとしたとき、その手の中には“吸い殻”がありました。自分が吸ったものではなく、“だれかが吸った吸い殻”でした。反対側の手には小さな袋を持っていました。そのタバコを拾い上げると、また何か落ちてないかなと少し先の足元を見ながら歩みを進めようとしていました。
私はこのとき、“ポイ捨て”に嫌悪感を抱いている私自身に違和感を覚えました。 ポイ捨てはダメだとポイ捨てという行為そのもの、その当事者に嫌悪感を抱いたところで、ポイ捨てされたものが今ここにある現実は変わらない。それを“拾う”ことができるかどうかだと。他人のやったことだからと、「ダメですよ」とは簡単に言えるけれど、わざわざ人さまの捨てたものを戻すまでのことではないとどこかで考えてしまっている自分がいるのだなと。
そのお父さんは思いより口より先に、拾っている。
《ポイ捨てされているものがあるのなら、まず黙って拾えばいい》
文字面を読めば簡単なことですが、これを実際にできるかできないかは大きな差だと思いました。(もちろん、拾ってたらキリがないのも分かるんですが)ポイ捨てされたものを当たり前にしておかないその姿勢が大事だと気づかされました。
“ポイ捨てされたもの”はぶっちゃけ当たり前の景色といっても過言ではないのではないでしょうか、たとえ見つけたとしても「よし、人様のゴミを拾って、捨てるべき場所に捨ててやろう」とは考えず、「ポイ捨てするなんて、マナーがなっていない」等の感情がまず先だと思います。
でもそれは、ポイ捨てをある種の当たり前として認識している自分がいるんじゃないか、そう気付くことができたエピソードです。
ゴミの落ちている街を当たり前にしない、まずは黙って拾えばいい、そんなふとした瞬間に心の暖かい動きができる人間でありたいと思いました。
「ポイ捨てを見たら、まずは黙って拾いに行くことができる人間になりたい。」
2024.5.20